第74話    「久しぶりの竹竿作り Y」   平成17年09月04日  

人一倍気の短い私は、毎日乾燥中の苦竹を見ていて我慢出来ずに一日も早く矯めて見たいとの欲望に駆られて来る。一般に釣り人は気が短いと云われているが、とりわけ自分は度を越えて短いと自負している。一本くらいなら練習で矯めてもと思い、ついつい何度も火にかけてしまった。ヤダケはともかくとしてニガダケを矯めて見て分かった事は、昔から云われている様に完全に乾燥させてからの方が良い事が分かった。何事も実践をして見なくては分からないと反省する。何事もやって見ないと納得が出来ないと、駄目な自分なのだからしようがない。11月に竹を採って天日で乾燥し正月に矯める竿師が居る一方で、3月末頃からおもむろに矯める竿師が居る。素人の自分にはどちらが良いのかは、分からない。

昔から竿師たちは、師匠から学んだ事や自分が実践して新たに発見し覚えたこと等をすべて弟子、親から子へと伝承の形で伝えて来た。その技の多くは秘伝とも云うべきもので、当然の事ながら門外不出であったものである。特に竿作りを飯の種にしている竿職人たちにとっては、それは飯の糧であったからその技の肝心なところは素人には中々教えては貰えない。その為に素人は素人なりにその技を少しづつ盗み、素人の間ですこしづつ伝承して来た。中には竿師と懇意な者もいて、出来の良いものを作っては店で売って貰い、小遣い稼ぎをしていた者も少なからずいた。庄内にはそんなセミプロの人達の中に極小数の名人と呼ばれる人が、存在していたのである。竿作りを商売にすれば普及品と呼ばれる数多くの竿を作らねばならず、とても良竿や名竿など時間をかけて作ってはいられないのが現実である。また普及品が数多く存在しなければ、良竿や名竿も生まれては来ない。又取り分け金に糸目をつけぬ竿の収集家と云われる好事家と呼ばれる人たちも、少なからず存在しなければ名竿等は生まれて来ない。名竿は実用も去りながら、得も云われぬ美術品としても一級品であるからである。

古今東西竿作りの手法には色々な技があるが、その方法の多くは釣り道具屋ではそう簡単には手取り足取りは教えては貰えない。簡単に教えて貰っても、その殆どは肝心な部分は断片的である。又時間がもったいないので、一々詳しいことなどを具体的には教えてくれる訳でもない。教えて貰ったにしてもそう簡単に分かろう筈もないのだが。まあ商売の邪魔になるので、断られるのが関の山である。その断片的なことから、勘を働かせて的確に判断して実技に応用出来るのは、ある程度長い期間竹を矯めた事のある経験を有した者でなくては中々理解が出来ない。

高価になった竹竿に替わってグラスロッドやカーボンロッドが登場すると、竹竿のフアンはいっぺんに激減している。竹竿は重いし、手入れも必要でその上高価である、どうしても化学繊維の竿に食われてしまう。いくら魚信の感じ取り方や釣れた時の釣り味が違うと云ったところで、釣りを始めて間もない人たちには分かる筈等絶対にない。売れないないから、後継者がいない。それに作る人が少ないから、大した竿でもないのに価格は益々釣り上がると云う悪循環となってしまい竹竿は、殆どの釣具店からその姿を消してしまった。

一昔前の鶴岡、酒田の有名な釣師の方々は、釣具屋の竿に飽き足らず大抵自分で竿を作っていた。その技もその人達の弟子にでもならなければその技の伝承は出来なかった。その人たちは釣具屋で求める竿に飽き足らず、自分好みの竿を作るようになったのだ。近年自分が竿の作り方をもう一度一から覚えようと思ったのは、昨年酒田から竿師がいなくなってしまつたからである。竿作りを覚えて、その作業を何かに書き残して置きたいと思ったからでもある。釣り方もそうであるが、一度失われてしまって技はもう誰にも聞く事が出来ないし、教える事も出来ないからでもある。果たして自分のような気の短い者が、どこまでマスター出来るものかどうか、不安なのであるが・・・・。

本来の作法で作った物ではなく我流の竿ではあるが、そろそろ試し釣りなどをしたいと思っている。中でも二間一尺のヤダケと二間一尺八寸のニガタケの竿の柔らかい延べ竿が楽しみである。二歳、三歳が釣れた時にどのような曲がり方がするのか、それを思うと今から胸が高鳴る。延べ竿の釣り方は、リールをつけた竿とは全く扱い方が異なる。竹本来の弾力、柔軟さを十分に利用しなくては取り込みが出来ない。それに十分に耐える竿かどうか、楽しみである。